ぷつりと、 - 演劇ユニットG.com

ぷつりと、

バッハ『フーガの技法』

今日で、地震から3カ月です。たまに震度3程度の地震がありますが、日常的には日常になってます。政局で、まあこんな時に不信任案提出とか、大連立とか呆れるような気もしますが、そんな政争をやっていてもまあ、大丈夫かなあと言う程に、被災地ではまだまだ多くの困難があり、とは言え、ここ東京では、そんな日々であります。

「月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言い出づるひとだになし。」

と鴨長明が『方丈記』に書いてますけど、昔も今も、やっぱり忘却の力は強く、はたから見ていると呆れてしまうようでも、実は一生懸命で、でもそれが故にまた大きな困難に襲われてしまうのが、それはそれで人の営みのような。

吉村昭さんの『三陸河岸大津波』(文春文庫)が再刊になって、まあこれは、明治三陸、昭和三陸、チリ津波の記録な訳ですけれど、でもやはり被害はまた起こる。でも生きていくことの奥には、それをも含んでいくような諦観があるようにも、また思います。

日々に日々は営々として、その中に永遠の調和の響きを伴いながら滔滔と。

でも「ぷつり」と途切れます。

『フーガの技法』CONTRAPUNCTUS18、終結フーガと呼ばれているこの曲の239節目、
「BACH(変ロ、イ、ハ、ロの旋律)という名が第3主題にとりいれられているこのフーガの作曲中に作曲者、逝く」
自筆楽譜には、息子エマニュエル・バッハによってそう書かれているそうです。

『フーガの技法』は指揮者のヘルマン・シェルヘンのオーケストラ編曲版の初演の録音をイタリアのマイナーレーベル、ストラディバリウス社のCDで聞いていたんですけれど、なんせマイナーレーベルゆえに解説はみんなイタリア語。まして、ライブ録音なので、終結フーガの後に、コラールの編曲版が一曲入っていて、おそらく観客への配慮だと思うんですけど、そこまでで全曲かなあとか思ってました。

またグールドのオルガンでの録音も全曲版ではなくCONTRAPUNCTUS1~9と、コンサート等での演奏をバラバラに録音したもの。

今回、ヘルムート・ヴァルヒャの『フーガの技法』(アルヒーフ、1956年録音)を購入。ヴァルヒャは16歳で失明し、バッハの楽譜を全部暗譜したオルガン奏者。

この録音は厳密で、最初はちょっと、とっつき難かったんですけれども聞いているうちに壮麗なパイプオルガンとともにこの世ならぬ「何か」に包まれて行くような、

でも「ぷつり」と途切れます。

シェルヘン版はオーケストラと言う事もあり、演奏者たちの精神的な余韻が残り、何となく、名残惜しさとともに、その「ぷつり」と途切れる深淵が濁されてます。でも、ヴァルヒャの演奏には、何の前触れも無く、まさに、そこで楽譜が空白になった、その真実が、まさしく深淵のように襲ってきます。

「死」

哲学的なことはともかくとして、有限な人間が、無限や永遠を憧れ、その片鱗を垣間見、憧れによって人間としての世界を作り上げたこと、そしてその無限や永遠は、芸術家による「作品」によって人間に対して与えられた物である事、それは事実だと思います。芸術家は、無限や永遠の恐ろしい憧憬を身に湛えて、その無残な記憶=作品を残すが故に「神」に近い存在とも鏡に映る。
しかしまた恐ろしい事に単なる「人間」なのでもあって死にゆく故に憧憬せざるを得ない精神のただ憧れるだけの、救いを求めるだけのたんなる恐怖の感覚器官であり、その恐怖をもまた作品の一部としてしまう、その堅固で強固な精神の構造が、最終的に表現の究極に現出する、それは偶然の産物なのかもしれないけれど、やはり一つの厳粛で峻厳な「重さ」、そこに到達することの「厳しさ」に身が引き締まります。