真善美 - 演劇ユニットG.com

真善美

芸術と、瓦礫のもつ魔力 岡田

御無沙汰です。ええ、そうですね。今まで週に1~2回のペースで何かしら更新していたわけです。まあ、それなりになんとなくですけれどもまあ、でも「頑張って」みたいな、仕様がない義務感を自分で勝手に作りだしたりしてみてね。でもまあそれはやっぱり自己満足なんかなあ、とも思ったりして、認めたくも無いですけれど、まあ「地震」の影響ですねえ。

平時で有れば、まあなんとなくで良かったのかもしれませんけれど、こんなときにまあ、垂れ流す様に書いていくのも何かなあとも思いました。
とはいいつつまあそれなりに、と言いますか、頑張って作品の方に傾注していくのが本分かともおもいつつ、だから頑張って次の本は書いてます。

でもねえ、まあこんなときですからいろいろ思う訳でもあります。
朝日新聞の4・30日付の社説に次のような記事がありました。

宮城の話です。
震災直後、高台で津波を逃れたその家には非難した人を含め14~5人の人々が肩を寄せ会い必死に暮らしていたそうです。
二度目に行った時も同じように10人前後。でも3度目に行ったときは、その家の家族を残して居なくなっていました。
その家の70代の女性は「驚いたでしょ。みんなあっと言う間にいなくなった。人がいなくなれば集落はもたない私も仙台に行く。もうここに住む事はないわ。」とそう言って泣き崩れたとか。
急変直下の離散の理由は「うわさ」のようです。
通信網が寸断され、もの言わぬ不気味な瓦礫にとり囲まれ、誰もが不安と闘う、しかしそして一人二人と消えていく。
行き先を告げずに居なくなった人もいるそうです。「ただ横たわった瓦礫が産みだす流言の魔力は、強烈だった。」と書いています。

以上のような内容でした。

話が飛びますが、前にも一回書きましたけど、いま渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』やってます。

地震のあとも数回いって、ボーっとフェルメールの絵を見てます。もちろんのこと方向性は違うと思いますが、瓦礫がもつ「魔力」とフェルメールの絵のもつ「力」というのは根本的には同じじゃないかなあとも思うんです。

1000年に一度という巨大な力で脆くも崩されてしまった秩序の残骸、と言うより「その力」の痕跡。かたや、まったく「私」と言う何かを離れた時の、ただ「絵」だけが存在するかのように表現された、痕跡。瓦礫が人々を離散させてしまう強力な「力」を発するように、逆に、フェルメール、何の主張も意味も問いかけもせずに、そこに存在するだけで、生きて行くと言う事への強大な力を注ぎこむ。

今回の『地理学者』は男がモデルの絵ですけど、フェルメールの絵はほとんどが女性です。それも、たぶんに不倫中の女性。フェルメールはおそらく人間、特に女性が、もっとも輝く瞬間が、いけない恋に燃えている時だということを、より正確に看破してたんだと思う。
美しさとは、倫理や道徳より遥かに困難だし、故にそれが反社会的要素を含んだとしても。時をも越える強大な人間の総体には受け入れらてしまう。シェークスピアにしろ、ギリシャの悲劇詩人にしろ、そういう意味で人間を見つめる目には一点の曇りもない。

「真」とは、「行き倒れ」の死体の象形文字。「真とは死者、それはもはや化すことのないものであるから、永遠にして真実なるものの意となる」(白川静『字統』平凡社)となる。でも「真」=「死体」がもつ巨大な力は、瓦礫がもつ「魔力」と同じじゃないかな。
芸術というのも、瓦礫や死体がもつマイナスの魔力を真に受容してのみ初めて「生」への力として光を放つように思う。

「善」「美」は両方「生贄の羊」からきている文字。死を直視し自らをも生贄・犠牲に供する強靭な心があって初めて「芸術」としての入口に立てる。困難だけど、フェルメールの絵とか見てると、その境地からしか、特に今は始められないような気もする。