神は老獪にして、 - 演劇ユニットG.com

神は老獪にして、

悪意を持たず。岡田

地震があってから、二週間がすぎた日曜日です。

計画停電とかもあって6時で閉まっていた駅ビルも、昨日から8時に延長しました。ゴールドジムも、電灯半分で薄暗いけれども、やっと音楽がOK。ああいうところはBGMが無いと、やっぱり不気味。なんとなくだんだんと普段になりつつあります。

まあ、余震もあるものの本棚を片付けて、ずっと下に置いてあった、上の棚の本を元に戻しました。また落ちるかなあとは思いつつ。まあ、他に置く所もなし。ちょっと下のほうに大きいのは移したけれども、まあ、また落ちるかなあ?とは、またも思いつつ。

「神は老獪にして、悪意を持たず」はアインシュタインの言葉。アインシュタインが若かった頃、光の伝達物質としてエーテルがもてはやされていた時代に、炯眼なアインシュタインはその説に反対していたけれども、ある天文台で、エーテルが発見されたとか。その時の言葉です。後に、その発見は間違いで、光の不可思議な特性から、相対性理論にいたるアインシュタインが正しかった。ただ、やっぱり自然と言うか、真理は老獪にして一筋縄ではいかない、というような事と思います。

地震と言い、その後に起こった、福島の原発事故と言い、まあ、自然にとっては自然な事をただ自然に行っているだけ。原子力にしても、ウランの核分裂と言うのは自然界で自然に起こること、それを例の「E=mc²」の方程式を勝手に利用して、エネルギーを自分たちのために利用しているのは私たち。

しかし、自然て言うのは、従順に見えると思うと牙を剥くんですねえ。まあ、まさしく神の如く老獪な。でも三陸にしても、人生に二度は経験するとかの津波。ただ、その豊かな海は、また人々を惹きつけてしまうし。またそこに何事もなかったようにとは行かないだろうけれども、人の歩みは営々として続いて行くんだろうと思います。
自分だって、余震の揺れに、どっか慣れてしまっている自分を発見したりね。本をまたも高い所に置いたりと、懲りないが故にまた、生き続けて行く、なんともやっかいな粘り強い、それが人間のようにも思います。

「神は老獪にして、悪意を持たず。」そう言って、ある意味、神をないがしろにしつつも、またその悪意ない神の老獪さを喜んでもしまうような、そんな人間の人間故のナメクジのようなねばねばした底力の強さの強靭な何かが、もちろんやっぱり人間の醜さにも通じるそれがある故に、どこか傷ついて心が引き裂かれて涙が出そうになることも多くあるんですけれども、だからこそ、そんな醜さ自体をも大きく受け止めなければならないし、そんな大きなそんな力なんだと思います。

ただ、それはやっぱり「かたち」になって初めて、その力としてあらわれる。と言うか、「かたち」にする、その行為自体が、ひとつの営みとして、営々として続けて行く。その行為自体が「働く」。まさにその動き、波のように広がる波動、それが一番なんかなあ。

まあ、兎に角、まずは地道に、働きまっか。