語ること、書きます。 - 演劇ユニットG.com

語ること、書きます。

残酷ともみえる諦め  岡田

今日、なんとなく神社に行きました、。ちょっと時間があって、大森駅前の高台にある神社の前を通ったら、何となく寄ってみようと思いました。

十円玉の賽銭を投げて、手を合わせて、何を願うのか? 「すべてが静かに落ち着きますように。」って、初め思ったんですけれど、なんかそれもちと違う気がして。一番自分にとって、いま必要なことかなあ? それは何か? 結局「受け入れますように。」

何か、何かを拒否している弱い、弱いのではないだろうなあ、後から考えれば、それは「弱さ」なのだろうけれども。この「今」と言うときのなかでは、それは「弱さ」と言うのではないような気がする。

「受け入れる」と言うのは、「老いる」と言う事だと思う。

だとすれば「拒否」とは「若さ」になる、若さとは生が「生」だけの世界。死は片鱗もない、だから、生は「生」にも近づけない。絶対も、永遠も無限も、一つに溶け合ってまんべんなく、そのまんま光り輝く事もなく、だから気づくことも気づかれる事もなく、でもだから、幸福で幸せかもしれない。

フランスの美術史学者アンリ・フォションが、37歳で早世したルネサンスの画家、ラファエッロに関して言っていた。

「ラファエッロは無垢の青春、人生最初の開花期である幸福だけを生きるように運命づけられていた。幸福以外に知ることがなく、イタリアに比類のない調和の歌を聞かせたあとに、生命が衰退へとかすかに傾きはじめるその直前、彼は光の中に姿を消していった。」H・フォション『ラファエッロ 幸福の画家』平凡社ライブラリー

昨日、ブログで書いた、花輪莞爾さんの言葉「残酷ともみえる諦め」。

「終わる」と言うことを、無常が無情にもわが身の上にも分け隔てなく、平等にやってくる、それを感じながら必死に、困難な敵と戦いながら、その敵ともひとつの中に、一つになるような、恐ろしい心が張り裂けそうに脈打ちながら、ただ、それでも視線が、なんだろう、視線が「声」になって言葉にならない命によって、聞こえる。

被災地で、暴動や略奪が起きないのは、ソクラテスが聞いた「声」は、みんなに聞こえているからじゃないかな。