『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』 - 演劇ユニットG.com

『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』

レヴィナスの本、読んでます。岡田

エマニュエル・レヴィナス。リトアニア出身のフランスの哲学者。後にフランスに帰化し、フッサールの現象学、ハイデッガー哲学の後継として、倫理思想を展開する。

まあ、そんなユダヤ人の哲学者です。

シェロー演出のデュラス『苦悩』は、デュラスのユダヤ人の夫が、第二次大戦後、収容所から帰還し瀕死の状態から生を吹き返すまでを描いているけれども、それは、戦争の悲惨とは違う気がした。

あれはデュラスの非常に強い個性の物語であって、苦悩の主語は、あくまでデュラスを離れる事は無い。穿った見方をすれば、デュラスは戦争を道具にしてでも、自分の表現行為を遂行しようとしているようにも感じられる。それはそれで表現者としては凄い事だとも思う。

ただ、「戦争」は、全てを道具にして「自分」を「自国」を「自民族」をより高い所へ止揚しようとする意志から始まるように思う。もちろん、それを「見世物」として提示するシェローや女優ドミニク・ブランは秀逸だったけれども、戦争が表現され再提示されるには、「私」の主語を離れた場所で全てが語られる必要があるのだと思う。

去年の年末ごろから、レヴィナスがちょっと気になって、調べたりしてます。実はレヴィナス、第二次大戦中にフランス軍の通訳として従軍し、ドイツの捕虜として強制収容所で終戦を迎えたとか。しかし、出身のリトアニアでは、両親を含む親族が殺害されたそうです。

ただ、レヴィナスは、その事にかんして強い抗議を文章で行ってはいない。いまはレヴィナスの後期の主著と言われる『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)を一月から、毎日毎日ちょっとずつこつこつ読んでるんだけれども、具体的、直接的ではないにしろ、「戦争」と言うものへの強い「戦い」の意志、そして態度が感じられる。

レヴィナスの本は、超難解。ハイデッガーでもそうだけれど、結構、造語とかも出てくる。でも、読んでいると、なんとなくぼんやりと、強い意志が伝わってくる。恐らく、直接的に物事を訴えるのではなく、地道に地道に踏みしめる事によってはじめて、怒りや苦しみから、その「負」と言う側面から始めて「正」への、ある芽吹きが始まるということが、深く、苦しい人生のあとに生まれてきたからだとも思う。

しっかし難解です、この本、『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』がもともとの書名だとか。でも、やっと百頁。四百ページちょいはあるから地道にガンバろっと。