存在を示すこと、謙虚な仕方で、 - 演劇ユニットG.com

存在を示すこと、謙虚な仕方で、

『苦悩』デュラス作シェロー演出 ドミニク・ブラン主演 岡田

世界的な演出家の舞台を見るといつも思うんです。なんで、こうも「光」が確実に、存在を照らし出すんだろうってね。

一人芝居と言う事もあるんだろうけれど、シェローの演出は、非常にシンプルなもの。テーブルに、何脚かの椅子。小道具も、かばんやコート、リンゴ、パンとそのくらい。でも、何か確実に、そこに「有る」と言う、有らしめる力が、舞台全体を一つに覆っていたような気がする。

シェローは来日していないので、恐らく詳細な部分には多くの落ち度があるのかもしれない。でも、ピーター・ブルックや、もう十年以上前に亡くなったストレーレルの演出も、演出家がそこに居なくても、存在の、ある何か確実さが、舞台にはあった。シェローと言うとワーグナー『ニーベルングの指輪』の派手な演出が話題になるけれど、派手さや豪華さも、ある確実で堅実な事物への核心が伴わないと、たんなる見世物のサーカスになってしまうと思う。

舞台における、その事物の核心。今回の舞台では、それはドミニク・ブランと言う女優にあったんだと思う。ドミニク・ブランは映画では、多く助演で賞をとっている。恐らく、その名前の通りブラン(白)が、その本質にあるように思う。決して、自己の色を主張せず、映画では背景のスクリーンのようにブラン(白)に徹し、主役を、その全体に載せる事。

当日パンフにも書いてあったが、企画は、シェローがブランと仕事をしたいと言う所から始まったようである。もともとはデュラスの日記を下敷きにしているし、多少シェローが手を入れたらしいけれども、根本的にはデュラスの本のままと言う感じがする。故に、それは演劇的と言うよりも、映像的なテキストにならざるを得ない。

マルグリット・デュラスは、作家である前に映画監督だし、今回、デュラスの公演と言う事で、家にあったデュラスの小説『愛人』を開いて見たら、いきなり、この本はブルーノ・ニュイッテンに捧げられていた。ニュイッテンは、デュラスの映画の撮影監督であり、ゴダールの『探偵』の撮影もしている。

その映像的なテキストを用いて、一人芝居と言うのは、恐ろしい冒険だ。故に、演劇的な退屈は随所に見られる。時間は適当に逆行するし、場所も砂上の楼閣のように揺れている。

2日前。ラシーヌの『ベレニス』を見ていたせいもあるのだろうけれども、ラシーヌの格調の高いアレクサンドラン(十二音綴り)で書かれた台詞。演劇の原点である厳密な三一致で構成された世界を見ると、この舞台のテキストには明らかな演劇的でない不純物が紛れ込んでいる。

ただ、舞台の後半、デュラスの夫、ユダヤ人であり収容所に囚われていたロベール・Lが帰還してから、ドミニク・ブランの顔が、デュラスに見えてきた、まさしく、若いころのデュラス、少女のように小生意気で、不幸に果敢な戦いを挑む戦士のような娘が。その時、もっとも、濃い女性としてのデュラスが浮上してきた。舞台の凄さは、そこにある。

存在を示す、舞台に実存として出現させる。「伝える」と言う事の大きな大地としての基礎の存在の提示は、作為つまり演出によって、初めて観客と結びつけられる、ただ、重要なのは、それは一つの契機であって全体ではない、それは一瞬の指示であって、全体を貫く意志ではない、その連結を一瞬のものとして、世界から撤退する勇気。撤退しなければいけない、撤退しなければ世界は小さく全体の一部に卑下されてしまう。撤退すると言う事、その勇気、そしてそれゆえの人間の美しさ、それは謙虚さによってのみ可能なのだと思う。