黒沢清『トウキョウソナタ』 - 演劇ユニットG.com

黒沢清『トウキョウソナタ』

恵比寿のガーデンシネマが閉館だとか、その特別企画での上映。岡田

まあ↓な映画。

『トウキョウソナタ』 [2008年日本・オランダ・香港]
監督:黒沢清 脚本:Max Mannix 黒沢清 田中幸子 【キャスト】香川照之 小泉今日子 小柳友 井之脇海 井川遥 津田寛治 役所広司

(あらすじ)「舞台はトウキョウ。線路沿いの小さなマイホームで暮らす四人家族のものがたり。リストラされたことを家族に言えないお父さん。ドーナツを作っても食べてもらえないお母さん。アメリカ軍に入隊するお兄ちゃん。こっそりピアノを習ってる小学六年生の僕。ある日、家に帰ってみると中はごちゃごちゃで、誰もいなくなっていた。いったい、僕の家で何が起こっているのだろう?」

正直に言って、黒沢清の映画って好きなんですよね。何でだろう?「風」かなあ?

諸手を挙げてスゴイと言うと、なんか嘘っぽい。そういう不思議なところをもった映画を撮るからかなあ。

まあ好きなんですよ。でもね。ここんところ色々と書いてきた映画と言う何かに関しての書き手、つまり私自身の心持ち、そういう点が何となく違うんですわ。何が違うのかと言うと、ゴダールにしろ、小津にしろ、ストローブ=ユイレにしろ「内部」と言う場所、そこでの仕事、そこでの表現。創造者としての位置、場所を感じるんです。もちろん内部に居れば内部を感じる事もないんです、内部に居るんですから。表現として「内部」が表面に現れる事もないし、故に「外部」が顔を出す事もない。安住していれば自由に振舞えるし、勝手な事もできる、しかしその自由さ。つまり自由と言う事が、もはや内部での特権であって、表現の自由が責任として、責任を追っていれば、それ自体が生きている事になっていったような、映画の誕生とその成長の「場」。

もちろんのこと、黒沢清の映画にも映画史への郷愁みたいなものはありますよ。『トウキョウソナタ』にしても、小津だ、成瀬だ、山中貞夫だと、映画史からの記憶は多々感じるんですけれども、そうではない何か。つまり「外」。 

冒頭、開けっぱなしのサッシから、嵐の風が入ってるシーンから始まるんです『トウキョウソナタ』。その風。つまり、見えないけどある存在の雰囲気。「実存」が存在するイメージ。もちろん見えないけど存在するという事の端的な表現は「お化け」。黒沢清と言えばホラー映画。『トウキョウソナタ』の前の2作『LOFT』・『叫び」。両方、お化け映画だったし。

ただ、単にホラー好きと言うよりも、もっと映画の実存の表現としての「恐怖」と言う感じがする。風が、忍び込むように走り出す。もはや安全ではない、外と通じてしまった世界。でも、でもそれでも、何か、何だろう、故郷のような、かってあった安住の場。そういう感覚が、どっかに感じるのかなあ。『トウキョウソナタ』。『アカルイミライ』。『人間合格』。とかって、やっぱり好きな映画なんですよねえ。