短編『フレディ・ビュアシュへの手紙』J・L・ゴダール - 演劇ユニットG.com

短編『フレディ・ビュアシュへの手紙』J・L・ゴダール

『ゴダール・ソシアリスム』公開記念 『ゴダール映画祭2010』の一本、映画史特別編『選ばれた瞬間』と併映でした。岡田

亡くなった映画評論家の淀川長治さんの言葉です。

「私はゴダールが好きで嫌いで、ヴィスコンティやパゾリーニが神さまで、ゴダールを悪魔と思う。映画を手段にしている論説家、だから大嫌い、そう思う。
ところが、そう思いながら、ゴダールとなると駆けつけるのは、澄みきっている映画を見せるからである。ゴダール以外、つくれぬ映画。」

確かに、そうなんですよねえ。ネットでいろいろ見ていたら行き着いた言葉。やっぱり、ゴダールをやるって言うと、駆けつけたくなる。その魅力は、「澄みきっている映画」その言葉に集約されるかなあ。

さて、『フレディ・ビュアシュへの手紙』はこんな映画。

短編『フレディ・ビュアシュへの手紙』
スイス/1981年/12分/35ミリ/カラー
音楽:ラヴェル<ボレロ>
スイスのローザンヌ市誕生500年を記念して、市の発注で作られた短編。題名のフレディ・ビュアシュはローゼンヌのシネマテークの創設者で、ゴダールからも世界中の映画人からも信頼があつい。短編とはいえ、ゴダールの短編は密度が高い。映画論が、都市論が、人生論が、ラヴェルのボレロにのって展開する。

この映画で有名なのは、高速道路で車を止めて撮影しようとして、警察に取り調べを受けているシーン。高速を走っていて、とてつもなく美しい光を発見し、車を止めて撮影する。その度に警察の御厄介という事のようで、その内の一回をキャメラに収めたのだろうと思う。

この短編も「そうかそこまで光が大事。」とか思ってたんだけれども、その内、やらせじゃないかなあとも思ったんです。だって、撮影一行を別のキャメラがとらえてるんだからね。まあ、偶然なんだろうけれど、所詮、映画なんて、そういう虚構の部分で出来ている、フィクション。
ただね、今回は、ちと違うもんが見えてきたような気がします。

ゴダールは、60年代に、『勝手にしやがれ』とか『気狂いピエロ』で一躍有名になる。でも、本来は生真面目で正義感も強い人なんでしょう。70年代に入ると、娯楽としての映画と、真実としての映画の選択のような壁に突き当たる。商業映画と決別し、パレスチナに行ったりして、政治的な映画を取るようになる。でも、80年代に入ると、商業映画に復活する。商業映画と言っても娯楽映画ではないし、政治的な内容も含むけれど、やっぱり商業映画に近い作品かなあ。

『フレディ・ビュアシュへの手紙』は、その復活第一作である『勝手に逃げろ/人生』(’79)の次あたりの作品。
この短編、水面、木の枝を通して広がる青い空、木々の影、そんなもんが美しいんですわ。ビデオ撮影を35mmにしてるんで画質は荒いんで、これ以降のゴダール作品の美しさとまでは行かないんですけど、ああ、「こんな綺麗な映画だったんだなあ。」って思ったりして。

映画の終わりの方で、ハリウッドの映画監督エルンスト・ルビッチの「水を撮ることが出来、空を撮ることが出来れば、人間を撮ることも出来る」という言葉を、ゴダールが引用して言うんです。

フィクションであれ、なんであれ、美しいものは美しい、あの、高速での取り締まりシーンも、それがやらせっぽくなる事は分かる、でも、それでも良いではないか、人間なんてのは、所詮、そうやってしか「物」は作れない、それに美しさと言うのは、それ自体を超えるかもしれない。そう言う感覚もあったのかなあ。

創造行為ってね、所詮はフィクション、虚構です。嘘ですよ、要はみんな。でも、その壁に突き当たって、それでもやっぱり創りたいと言う、その心持は真実なんかも知れませんね。その境地に近づくと、澄みきった作品にも近づくのかもなああ、でした。