『メモランダム』アモス・ギタイ - 演劇ユニットG.com

『メモランダム』アモス・ギタイ

日仏学院、アモス・ギタイ特集「超えて行く映画」の内の一本
岡田

日仏学院のちらしから引用すると、こんな監督です。
「イスラエル建国の2年後、1950年にハイファで生まれたアモス・ギタイ。彼は、イスラエルを巡る歴史と問題をドキュメンタリーとフィクションというふたつの手法で描いてきました。複数の場所とそこに住む様々な人間の記憶を撮り続けることで新たな真実を浮かび上がらせてきた彼にはまた、イスラエルに生まれながら、イスラエル/パレスチナの「対立構造を批判する」というきわどい戦略の過激さゆえ、祖国を離れての活動を余儀なくされた時期もありました。中東の政情が一向に好転しない現在の世界情勢では、イスラエルの現実と本質を伝えるギタイ映画の必要性はますます高まっています。また、彼の映画はその映像スタイルにおいても世界の注目を集めてきました。たとえば、ベルナルド・ベルトルッチは、ギタイの撮影現場に「危険な空気が漂っていた」とし、「詩人の手の中で、カメラは素晴らしい武器にもなれば、危険な凶器にもなる」というコクトーの言葉を引用してその芸術性を絶賛。サミュエル・フラーは「彼は古代の魔法と現代のコンピュータ化された魔法を一つにする」と、また、フィリップ・ガレルは「彼の映画は崇高だ」と語っています。」 

『メモランダム』は、1993年、ギタイが母国イスラエルに戻って撮った映画とか、30~40代の旧友3人の何気ない日常を、ただ何気なく撮っていました。
上映の前に、藤原敏史さんという、ギタイのドキュメンタリーを撮った事もある映画監督さんのプレトークが少しあって、そこでも言及されてましたけど、この映画、イタリア語圏スイス出身の撮影監督、レナート・ベルタとの初の組み合わせ。なんでも、ギタイが無理やりベルタをイスラエルによんで撮影をさせたとか、でも、このあと6本、二人で組んで映画を作ってるんで、相性が合ったんでしょうねえ。「ベルタの撮影と言う事で来ている観客の方も多いと思います。」と藤原さんも言っていましたが、私も、その一人でした。それで、ベルタの撮影に関して言及して、普段のベルタとも思えないような、乱暴と言うか暴力的な個所を是非見て欲しい。と、

まさしくと言うか、対象に異様に近いんですね。この撮影。もちろん全部では無いんですけれど、ある個所になると、暴力的に近くなる。顔のアップと言うよりも、眼なり口なりの器官の撮影。それに、野菜をただ切るだけのカット、それが延々と続くショット。それも近すぎて気味が悪い。更に「肉」を無造作に切ると言うか、これがベルタで撮るから異様に生っぽい、気持ち悪い。そのまんまってな感じです。そうだなあ、なんだろう、要は人なんて食って、寝て、交わって、死んでいく。でも、「物語」って奴は、そこに関係性を築いて、一つのプロットタイプを作っていく。「美しい」と言う、そういうものに対する、意志的でない反抗が、ベルタの影を強調する事によって「光」を明確に捉える撮影が、物語によって回収される筈の、物自体が持つ異様な暴力性をフィルムに焼きつけていたのかなあ。そんな感じもしました。

うーん、なんかねえ。戦争なのかなあ。『映画は戦場だ!』と言ったのは、ギタイの初期の映画にも何度か出演していたサミュエル・フラー。まあ、フラーの半生記の書名なわけだけれど。

サミュエル・フラーは、第2次大戦では歩兵を志願して地獄の最前線を戦いぬき、戦後は映画を次々に発表して、ゴダールやトリュフォー、ヴェンダースなどに多大な影響をを与えた映画監督。

そのフラーが、ギタイに惹かれるのは、そういう戦争というものが持つ巨大な「怒り」なのかなあ。ただ、フラーの映画が持つエモーションと言う感覚とも何か違う、やっぱり「怒り」なのかなあ。日常的にどこかに存在してしまうような「怒り」が、けっして解消される事も無いだろうと言う「諦め」とともに日常化した世界かなあ。

『メモランダム』、興味は惹かれるけれど、あんまり好みではない映画でした。ただ、最新作『幻の薔薇』はギタイの新境地とか、ゴングール賞受賞の女流作家の小説の映画化。ロードショウ公開されるようだったら行って見ようかなあ。