演劇と「映画」に関して。Straub-Huillet『アンチゴネー』 - 演劇ユニットG.com

演劇と「映画」に関して。Straub-Huillet『アンチゴネー』

ヘルダーリン訳を1948年にブレヒトが改訂した版です。
岡田

『アンティゴネー』
Die Antigone des Sophokles nach der Holderlinschen Ubertragung fur die Buhne bearbeitet von Brecht 1948
1991年-92年(100分)
撮影/ウィリアム・ルプシャンスキ
ベルリン・シャウビューネ劇団の委嘱による舞台演出に基づく映画。ソポクレスの悲劇「アンティゴネー」をヘルダーリンが特異な方法でドイツ語に翻訳、それを基に1948年にブレヒトが改訂した版を古代円形劇場で様式的に映画化している。

そういう映画です。またこれ厳密な意味で忠実な映画化です。つまり映画的では無く、演劇的な映画化ともいえる。しかしね、故に何か。演劇で無いものが出てきている。このブレヒトの改訂版てね、改悪だと思うんですよ。演劇としてね。もちろん。個人的な意見ですが。

演劇は、やはりギリシャに始まる。アンティゴネの作者ソポクレスです。哲学者プラトンの同時代人。プラトンの書物をひも解けば、必ず尊敬に値する賢人として出てくるのがソポクレス。
プラトン自身、アテネに出てきて、最初は劇詩人を目指すものの才能がなく断念した。つまりね、哲学・思想よりも演劇の方が深く、広く、かつ困難なんです。

でも、どうも近代の劇作家は、とかく演劇を、思想や哲学を語る為の「道具」かなんかのように扱う傾向がある。チェーホフは別として、ブレヒトには、特にその傾向が強い。

アテネ・フランセで以下の講演の文章があったので引用させてもらいます。

「そのことは、ブレヒトが盛り込んだ『アンティゴネー』の反ナチ、反ヒトラーの意図と結びつけて考えることができます。というのは、『アンティゴネー』のクレオン王は、要するにヒトラーのある種のパロディです。直接的にそうだとは書いてありませんけれども、両者共に国を戦争に駆り立てる支配者です。クレオン王をヒトラーだとすると、アンティゴネーはドイツ国内にいながら戦争に加担しない、内的な亡命者だと呼ぶことができるでしょう。」( 2004年12月18日 講演「ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2000」渋谷哲也(ドイツ映画研究者))

(あらすじ) オイディプスの4人の子供たちエテオクレス、ポリュネイケス、アンティゴネ、イスメネのお話。オイディプスは自分の素性と父殺しの真実を知り両目を抉って荒野に彷徨い出ます。アンティゴネ、イスメネの二人は父親に従いますが、息子、エテオクレスとポリュネイケスはしたがいません。そこで、怒ったオイディプスは呪いをかけます、兄弟が敵味方に別れて戦い、双方討ち死にするようにと。そして呪いは結実します。時のテーバイ王は、オイディプスの妻であり母親でもあった、イオカステの弟クレオン。テーバイ側で死んだエテオクレスは丁重に葬り、敵国アルゴス側で戦ったポリュネイケスの死骸は野晒しにします。哀しんだ、妹、アンティゴネは、クレオンの禁令に背いて、ポリュネイケスの死骸を葬り、罰として岩穴に幽閉され自害。アンティゴネの許嫁だった、王クレオンの息子ハイモンも自害。それを悲しんだ、クレオンの妻エウリュディケも自害すると言うお話。

正直に言うと、アンティゴネ自身は、途中で命乞いをしたり、何をしたいのがよく分からないし、あんまり良く書けた芝居とは言えない部分も無い訳ではない、しかし、王の禁令が芋づる式に悲劇を引き起こして行くさまは見ていて迫力があります。
まして、もともとは父親が息子に呪いをかける(正確に言うと、イオカステが妻であり母であるように、このエテオクレス、ポリュネイケスも、オイディプスにとっては息子であるとともに同じ腹から生まれた兄弟となる。)と言う所に発端を持つお話。

ブレヒト版だと、この呪いもカット。兄弟が敵味方に別れて殺しあうのもカット。クレオンの妻エウリュディケの自害もカット。
なんだかなあ。確かに、ブレヒトがこの改訂版を書いたのが1948年、大戦の直後でヒットラーをパロディー化したいのも分かるが、こう言う個人的な思想の表現は、どうなんでしょうかねえ。

ただ、この改悪、映画的であるとは思うんです。道化のような独裁者のお話。若く美しいヒロインに、それに恋する王子様。そんでもって、二人の悲しい死。
まあ、映画って、大衆向きに作らんといけんよねえ。てな感じですかね。でもやっぱり演劇好きとしてはいけません、やっぱり許せないかなあ。

こう思うんです。「演劇」ってのは人間全体と言う巨大な大地であり、そこから芽が生えて美しい花や若葉となって「思想」や「哲学」が花開くことはあるでしょう。しかしそれでも「演劇」は、だからこそ巨大な大地として、深く広く暗く、巨大な闇として、人間全体がもつ闇の、魑魅魍魎の、百鬼夜行の全体として深く、かつ暗く存在していないといけない。なーんてね。

そんな事も思いました。