小津安二郎『東京物語』、Straub-Huillet『セザンヌ』 - 演劇ユニットG.com

小津安二郎『東京物語』、Straub-Huillet『セザンヌ』

岡田

ストローブ=ユイレ『セザンヌ』でも、朗読されるのが以下の文章。小林秀雄『近代絵画』のセザンヌの章でも引用されてます。

「・・・だが、もし、少しでも気が散ったり、気が弱くなったり、ある日写し過ぎたと思えば、今日は昨日と反対な理論に引きずられたり、描きながら考え込んだり、要するに私と言うものが干渉すると、全ては台無しになってしまう。」(ガスケ『セザンヌ』 引用は近代絵画からです。全文は、岩波文庫から与謝野文子訳で出ています。)

表現に関してセザンヌほど、厳密で厳格な画家は居なかったんだと思います。でもね、描いているのも、考えているのも「私」です。そんな事を考えつつ、久しぶりに『東京物語』。東京フィルメックス映画祭と、松竹90周年の合同企画とかで、ロードショウ用の映画館、東劇での上映でした。
『東京物語』ってね、実は小津的な映画ではないと思うんです。さりげない生活の中で、結婚とかをさり気なく描く、つまり『晩春』とか『麦秋』です、そっちが小津的と言うならば、尾道から出てきた老いた両親を邪険に扱った末に、母親が死んで、そのお葬式までを描く。子供たちに積極的な反省の態度はないし。たった一人義理の両親に親切にした嫁。戦争未亡人の原節子の紀子にしても、戦死の事実もない夫をこのまま待ち続けられないかもしれないと言う罪の感情が、優しさとなっているに過ぎない。
喜劇調にしたてて有るからそうは見えないですけど、結局、『リア王』のように親を虐め抜く話に見えなくもない。
この後の小津作品は、夫の浮気を描く『早春』。公開時は非常に不評だったと言う、堕胎を描いた『東京暮色』となります。つまり、この時期の小津の作品は、人間の暗い面に焦点が行っているように思う。

『東京暮色』の後、初のカラー映画『彼岸花』から、再び、『晩春』や『麦秋』に見られた、俗に言う小津的な映画が続く訳だけれど、『東京物語』は非常にギリギリな所で、何かがギシギシと戦っているような印象も受けた。
何なんだろう、数年前に見たとき思ったのは、こういう事。恐らく、小津ほど知的な映画人は居ない。それは、他の映画監督が、ストーリ的に陳腐な造型しかできない、つまり良い人ばっかりか、漫画的な悪の捉え方しかできない陳腐な映画観に対して、小津の知性が許さず、通常の映画的な造型を廃した、あまりに淡々とした小津的と呼ばれる映画群を形成した、しかし、小津とて映画好きの映画人であり、やっぱり映画的に少々陳腐な映画を作りたい衝動にかられ、知性に反抗しながらも作ったのが『東京物語』。
しかし、もっと複雑な何か何だろうなあ、

ストローブ=ユイレ『セザンヌ』を見ていて感じた、厳密な厳格さ、セザンヌが言う「要するに私と言うものが干渉すると、全ては台無しになってしまう。」と言う厳格さ。小津の撮影現場と言うのは、お通夜のようだったそうで、山村聡さんの言葉を借りると「みんな、恐れちゃってシーンとしている。」(『成瀬巳喜男演出術』ワイズ出版)そうである。その厳格さを持って、声高にならずに、たんたんと描くと言うことの、非情な内的・精神的な闘いが、やっぱりフィルムに焼き付けられていたのかもしれません。