ストローブ=ユイレ『黒い罪』 - 演劇ユニットG.com

ストローブ=ユイレ『黒い罪』

寝ちゃったんですけどね。岡田

『黒い罪』
Schwarze Sünde
1988年(40分)
撮影/ウィリアム・ルプシャンスキ
ヘルダーリンの「エンペドクレスの死」の1820年執筆の第三稿の映画化。ストローブ=ユイレはこの第三稿は映画化不可能と考えていたが、ベルリン・ シャウビューネ劇団による舞台脚色版に不満を覚え、原作に忠実な映画化を決意した。

まあ、そういう映画です。ストローブ=ユイレは『エンペドクレスの死』も映画化していて、そちらは、2時間を越える大作、その未完の三稿の映画化。ただね、表現における全ての親切な要素を剥ぎ取った表現なんですね。詩は晦渋を極めるし、物語のような物語が有る訳でもない。エンペドクレスは、古代ギリシャの自然哲学者です。その死までを、ただ延々と語る。

作者は、詩人のヘルダーリン。18世紀当時のドイツでは、戯曲と言うのは、上演用というよりも読書用に重きを置かれていた。ゲーテの『ファウスト』が代表でしょう。あの長い戯曲と言うよりも戯曲形式の読み物は、実は「舞台」からは遠い所の存在。つまり、同時代のヘルダーリンの戯曲も、戯曲と言うよりも、詩的・哲学的な読み物と言った方が正しいと思います。

見たのは2回目で、ストローブ=ユイレの映画と言うよりも、レナード・ベルタが撮影したストローブ=ユイレの映画が見たいんで、ちょっと気を抜いて、寝てたんで、こんな事を書くと怒られてしまうかもしれないけど、あの映画からは、ドイツ語の荒々しい武骨さが諸に感じられてしまう。

ちょっと話は変わりますが。
私の次の作品は、コンラッドの『フォーク回想』の脚色。コンラッドはポーランド人で、第一外国語はフランス語。だのに、第二外国語の英語で小説を書いた、もと船乗りの作家。まあ、そんなこんなで次は「英語」との戦いって感じもあるんです。そこで、まずはと言う事で、シェークスピア演劇の英語録音を毎日聞いてるんですけれど、これ、思った以上に美しく、面白いんですわ。ちなみに『夏の夜の夢』。ほんとは『リア』か『テンペスト』にしようと思ってたんですけれど、ジュンク堂で探してもらっても、これしかなかったんで、話も良く知ってるしね。でもやっぱり英語の響きは、単純でかつ美しい。

あっ、そうだって思って、もともと持っていた、あるCDを聞いたんです。モーツァルトの『魔笛』ブルーノ・ワルター指揮の1956年、メトロポリタン歌劇場での実況録音。知っている人は知っている、この録音、実は、歌詞が英語なんです。同じ、ワルター指揮の42年版も持ってるんですけど、こちらも英語です。
『魔笛』はオペラと言うよりも、演劇的な部分が多いんで、そうなったのかな。でもねえ、音楽が入るとあのシェークスピアの朗読では感じた英語の美しさが消えてしまうんです。モーツァルトの音楽に英語が負けるとか、翻訳その他の違いは有るにしても。英語圏でオペラが進化しなかったのは、やっぱり英語が音楽を必要としなかったからかなあ、何て思います。

逆に、ドイツ語だと、やっぱ、朗読だけはきついかなあ。もちろん、ヘルダーリンの詩の内容は、格調が高く、難解でありながら深い思索に満ちてはいる。しかし、ドイツで進化したクラシック音楽の集大成とも言えるワーグナーを聞いているとドイツ語の武骨さが、逆に音楽と拮抗して、あの「楽劇」の世界を構築していく。

もちろん、試みとしてのヘルダーリンの映画化と言うのは意味のある事だと思います。ただ、優れた作品と言うのは、やはりどこかに娯楽性を秘めていないと成立しないんじゃないかなあと、このところ、非常に強く思います。

ワーグナーの長大な『ニーベルングの指輪』にしろ、ゴダールの映画にしろ、一見、娯楽とは遠い地点にあるようであって、実は至る所に娯楽の要素が鏤めてある。
そこが実は、非常に難しい。

そして、逆に、「娯楽性」を完全に排除すると言うのも、もっと苦難の道ではある。ベルタの影を重視する事によって、光を際立たせる撮影は、そこで切り取られた「光」の美しさだけで、一つの娯楽になるのかもしれない。特に、今回『黒い罪』の撮影のルプシャンスキーは、そう言う娯楽性も排除することによって、あの乾いた空気を捉えていた。

しっかし、きついぜ!