成瀬巳喜男 めし - 演劇ユニットG.com

成瀬巳喜男 めし

神保町シアター「成瀬巳喜男と女優たち」
いやあでも、去年もそうだったけれど、年末って言うと何故か映画ですね。
岡田

久し振りの神保町シアター、成瀬の『めし』1956年、昭和31年かな。戦後低迷していた成瀬の復帰作ともいえる映画。
もう、何回目だろうなあ『めし』を見るのは、ただねえ、いつも、あんまり面白くないなあって感想だったんだけど、今回も、まあそうです。
でも、久し振りに見て、なんでそうなのかがぼんやり見えました。そんなことを徒然に、ただぼんやりと。

成瀬の映画の凄さってのは、そんなぼんやりなんですね、実は。
現実を見れば分かる事ですが、現実ってのは、ドラマや演劇のように劇的には出来ていないし、ハッピーエンドにも出来ていないんです。でも、それでは見世物にならない。だから、ハリウッド宜しく、現実をエンターテエインメントに再創造する。
もちろん1930年代、盛期ハリウッドでは、それが芸術的レベルにまで昇華されていた。しかし、戦後、亡命ヨーロッパ人は帰国し、赤狩り等で50年代ハリウッド映画の低迷気がある。この時期に不死鳥のように羽ばたいたのが日本映画。まあ、小津、溝口、黒澤映画ですね、そんでもって、この時期の日本映画が、後のスピルバーグとかルーカスに繋がっていく。
しかし、小津、溝口、黒澤ってのは、やっぱり芸術的な映画なんですね。小津は流石に賢いから、成瀬の映画に見られる「自然さ」に気付いていたし、「俺にはできないシャシン」って言う『浮雲』の評価も、そんな所から出てるんだと思う。

でもね、『めし』には、まだ、そういうエンタメとしての要素が残ってるんですね。あらすじを言えば、原節子と上原謙の倦怠期の夫婦が、その危機を乗り越えるまでの過程と言う、同じ原節子主演の『驟雨』と同じ感じ。でも、『驟雨』だと、明確に乗り越えるなんて感覚は無いんです。だって現実を見て下さいよ、現実って、そんなに甘くはないし、そんな程度のことで現実は変わってはいかないんですよ。だから『驟雨』だって、どう見たってハッピーエンドには見えない。
でも『めし』だと、そうなっちゃてるんですね。それも、「映画」という圧力に屈した感じで、いやいや、ハッピーエンドに持って行ってるって感じが、すんごくするんですわ。でも、監督として、それは気に食わない、だから、ちょこっとした所で反抗している。それがショットの端々からちょっとづつ伝わってくる。

でも、10月に公演『千羽鶴』やってみて、そう簡単にはいきませんよねえ。書いてる時、稽古している時は無我夢中だから、そりゃあベストの心持ちですけれど。特に作家として、公演を見ていると、いろいろと、ああ、あれではいけない、無駄があるとかね。でもそうやって一歩一歩、理想から真実へと近づいて行くのが、それこそ「道」なんだろうなあ。なんてことも思いました。

話は変わりますが。『めし』見ててね。上原謙の姪役の島崎雪子が、寝たまま両手をあげて「起こして」って言うシーンがあるんですわ。どっかで見たなあって、ただぼんやり印象に残ったんですけど、ネットでゴチャゴチャ見てたら、「ああ、そうか! そうだそうだ。」って。黒澤清の『東京ソナタ』で、小泉今日子がソファーに寝ころんで、両手を上げるシーンがそうだ。『東京ソナタ』、子役の階段落ちとか、あの奥行きのない室内シーンとかで、どうしても小津って思ってたんだけれど、『めし』のあのシーンは同じだし、山中貞雄の『人情紙風船』とのストーリー的な近似性とかも書いてあった。黒澤清は映画撮らんのかなあ?

なんかでも映画の季節。神保町シアターでは、小津の大々的な特集。京橋のフィルムセンターでは黒沢明の特集。そんでもって凄いのが、アテネ・フランセで、今年も、去年に続き、ストローブ=ユイレの特集ですわ(これって年末恒例かなあ。そんな気もするが、あの難解な映画が年末恒例ってのは、日本って凄い文化国家かも。)


あと、未見なんですけれど、イスラエルのアモス・ギタイの特集を、フィルメックス映画祭、東京日仏学院、アテネ・フランセでやるらしい。アモス・ギタイの映画には、撮影でレナード・ベルタが何本か携わってるんです。ベルタで探してたら、見つけた監督。ストローブ=ユイレのベルタ、アモス・ギタイのベルタ。同時に見れるなんて、なんて贅沢な! そんな季節です。