芸術、芸術家、芸術か? げいじゅつかあ - 演劇ユニットG.com

芸術、芸術家、芸術か? げいじゅつかあ

ルキノ・ヴィスコンティ『ヴェニスに死す』

岡田。

44歳になりました。嬉しくも無いけど誕生日、蕎麦屋の店長がワインくれて、暇だったんででっかいテレビで、何か見るかって事になって、ちょうどあったのが『ヴェニスに死す』。久しぶりに見ちゃいました、ヴィスコンティ。

 

たとえば、溝口の映画を見ていて、カメラが動き出す瞬間には、もうそこで「芸術」が沸々と煮えたぎる訳ですわ。でもね、ヴィスコンティのあの、絶対に下品さを知っていながら、いや「芸術」と言う名の何かからもっとも遠いはずである、あのクローズアップが下品さとともに漂ってくるってのもそれはそれで、なにかゾクゾクってするもんが有るんですよね。

 

 

『ヴェニスに死す』、原作はトーマス・マン。老年の作家、アッシェンバッハが、疫病の広がるヴェニスで美少年を見ながら死んでいくって、ただのそれだけのお話し。

 

映画では作家が、音楽家になってて、これってマーラーがモデル。少年愛だと同性愛になる訳だけど、この映画のヴィスコンティが凄いのは、同性愛の匂いがしないってところ。なんだろう、人は生きていれば純粋無垢な瞬間てのが、多分、過去のどこか有る時点では必ずあったんだろうなあ。そして、それに対する郷愁ってのは、だれでも普通に持ってるんだよ、みたいな感覚が、異常な退廃の中に透明に浮かんでくる所かなあ。誰かが言っていた、(確か、蓮見重彦さんだったような気がするけど、)『ヴェニスに死す』は、実は「母性」の映画だって言うのは、よく分かる気がする。

 

ただね、それだけでは面白くないんですよ。たとえば、アッシェンバッハが、少年の家族に、ヴェニスに疫病(確かコレラ)が広がってるって伝えようとして、でも出来なくって、身だしなみを整えに床屋に行くんですね。また、この床屋がおせっかいで、老年の姿を鏡で見せた上に、髪を黒く染めて、白粉を塗って、口に紅まで塗るんですわ。そこにね、例の、あれですよあれ、マーラーの交響曲第五番の第4楽章「アダージョ」。あの甘ったるい曲が流れてねえ。まあ、醜いと言うか下品この上なしと言うか、残酷ですよ、残酷。

 

ラストにしたってね。心臓の発作で死にそうになりながら、海辺で横になり遠くに少年を見ながらね、でも、苦しい脂汗で、髪を染めた黒が、汗とともに流れてね、そこにも「アダージョ」です。ガクッ死んでね。カメラは遠景ですけどね。じっと海辺で死んだ人間と、まわりで騒いでいる女性。二人の若者に、無造作に手足を持たれて死んだ家畜のように運ばれて行って、そこでお終い。

 

でも、やっぱりヴィスコンティは芸術家なんですね。アドリア海の美しい海の狭間に、美少年タッジオを置くだけでは駄目なんです。家畜のように醜く死んで、醜く扱われる、白髪を染めた醜い老人をも、きちんとカメラに、それも遠景で捉える。見て下さいではなくて、これままた現実って体でね。

 

でも残酷ですよ。芸術家ってのは、やっぱり孤高で、孤独で、かつ、もっとも重要に「残酷」でなければならないんだろうなあ。