川端康成 ノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」 - 演劇ユニットG.com

川端康成 ノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」

仏界と魔界

その部屋は炉がきってあって、障子を明けると強い火気が流れて来た。私は敷居際に立って躊躇した。水死人のように全身青膨れの爺さんが炉端にあぐらをかいているのだ。瞳まで黄色く腐ったような眼を物憂げに私の方へ向けた。身の周りに古手紙や紙袋の山を築いて、その紙屑のなかに埋もれていると言ってもよかった。到底、生き物と思えない山の怪奇を眺めたまま、私は棒立ちになっていた。
『伊豆の踊子』冒頭

踊子を追って、茶屋によった学生は、その奥座敷で、茶屋の爺さんにあう。爺さんは、長年中風を患って、諸国から養生の手紙や、薬袋を集めてその中に埋もれている。
青春の書とも言われる『伊豆の踊子』だけれど、冒頭の、この部分にはハッとさせられる。この後、この爺さんは、一切、物語には関係しない。

また、初回に引用した『雪国』。再会した芸者の駒子と、文筆家、島村が、泊っている宿の周りの描写。

この部屋は二階であるが、家のぐるりを蝦蟇(がま)が鳴いて廻った。一匹ではなく、二匹も三匹も歩いているらしい。長い事鳴いていた。『雪国』

鏡に映るのは、美しいものばかりではない。真実とは、その両面であり。川端作品には、その両面が、表現されている。
三島由紀夫は川端文学を評して、「抒情のロマネスク」と言っているらしいし、確かに抒情的なのだ。
ただ「抒情」と言うと、感情をそのまま表現すると言う事にもなろう。しかし、抒情が、抒情として芸術の域に達するには、きちんと全てを見、それを感情の次元にまで高めなくてはならない。
つまり、自分とか、自我、エゴという次元を、遥かに超越して初めて、「抒情」の次元に達せるのだと思う。

ノーベル文学賞受賞講演「美しい日本の私」(講談社現代新書)の冒頭は、道元の和歌、

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪冴えてすずしかりけり

で始まる。「本来の面目」と題されるこの歌。四季の名物をただ並べただけ、といえばそれだけだが、この歌のすごさ。それは、全てを切り取って切り取って、全部そぎ落とした、その果てに、「本来の面目」として、ふっと残ったものが素直に出て来た。そこにあるんだと思う。

もし、小説においてそれを行うにはどうするか。川端作品の特徴。特に戦前の作品には、「美しい物」を補完するような「魔」の部分、『伊豆の踊子』の爺さんや、『雪国』の蝦蟇が見え隠れする。
しかし、戦後の作品には、魔の部分。言いかえれば、人間の、より深い業の部分。性的な部分が、前面に立ってくる。
 前後不覚に眠る少女。そこで一夜を過ごす老人を描いた『眠れる美女』。『美しさと哀しみと』の音子、けい子の女性同性愛。と極端な世界もあるが。
人間を、全的に捉えるとは、そう言う人間の側面をも視野に入れると言う事になる。そのうえで、全てを切り取って切り取って、全部そぎ落としていく。

しかし、そのような魔界に入るのは、そうた易いことではない。

「仏界入り易く、魔界入り難し」

戦後の川端が好んだ、一休宗純の言葉。作品で言うと『舞姫』、未完の遺作『たんぽぽ』には、そのまま出てくる。「美しい日本の私」でも言及されている。

『舞姫』は、バレエを踊る親子の物語だが、女性の美しさが志野茶碗で表現されていたり、今回の公演『千羽鶴』の元となるような作品。
『千羽鶴』の中には、「仏界入り易く、魔界入り難し」の言葉は出てこないが、やはり、魔界だろうなあ。