川端康成の代表作
二十ニになった学生の、川端は、一人で伊豆に旅に出ます。そこで有った日常を綴った『湯が島での思い出』のうち踊り子の部分を訂正し書き直したのが『伊豆の踊子』。
良く出来ていたため。小説として発表、以後、代表作です。
なんて事のない話。ただ、伊豆で、旅一座の一行と、一緒になり。大島から出てきている出稼ぎの一行。帰れば農業だったかな。
素朴な人々と、普通に心が通って、また、島の方にも是非来て下さい。と言われて、別れて行くいう。それだけ。
ただ、この小説が人の心を打つのは、作家が、16歳で、家族を全部失った孤児であり。その自分だけが苦しい。なぜ自分だけが一人。という捻くれた孤児根性に対して、同じ、人間として素朴に、しかも暖かく接してくれた、旅の一行と、子供のように純粋な踊子に対して、人間を、世界全部が敵のように見えていた精神が、人間のぬくもりにやさしく包まれていくさまが、抒情的に描かれているからだと思う。
私の横に少年が寝ていた。河津の工場主の息子で入学準備に東京へ行くのだったから、一高の制帽をかぶっている私に好意を感じたらしかった。少し話してから彼は言った。
「何か不幸でもおありになったのですか。」
「いいえ、今人に別れて来たんです。」
私は非常に素直に言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった。
『伊豆の踊子』最後の部分
ただ、人に別れただけで素直に泣くと言う、純な所に、孤児根性で捻くれた人間が戻っていく事。そこに『伊豆の踊子』と言う短編が愛される多くの要素があるんだと思う。
岩波文庫の『伊豆の踊子』のあとがきの部分で、川端自身がこう書いている。
「伊豆の踊子」でも「雪国」でも、私は愛情に対する感謝を持って書いている。「伊豆の踊子」にはそれが素直に現れている。「雪国」では少し深く入って、つらく現れている。
『伊豆の踊子・温泉宿』岩波文庫 232頁
『雪国』は、初回でも書いたけれど、文筆家の島村が、雪国に行って、そこの芸者、駒子と逢瀬を重ねる物語。駒子の幼馴染の言い名付けを看病した、葉子という女性が、合わせ鏡のように交互に表現される。
川端の作品には、2人の女性が現れるパターンが多い。『雪国』の駒子、葉子。今回の公演『千羽鶴』の文子、雪子。『女であること』のさかえ、妙子。そして、『古都』。生まれて直ぐ、捨てられバラバラに育った、双子の姉妹、千恵子と苗子。
さて、その『雪国』にも、ちょっと似たような「別れ」の場面がある、駒子と別れて、汽車にのった島村である。
乗客は不気味なほど少なかった。五十過ぎの男と顔の赤い娘が向かい合って、ひっきりなしに話しこんでいるばかりだった。肉の盛り上がった肩に黒い襟巻を巻いて、娘は全く燃えるように見事な血色だった。胸を乗り出して一心に聞き、楽しげに受け答えしていた。長い旅を行く二人のように見えた。ところが、製紙工場の煙突のある停車場へ来ると、爺さんはあわてて荷物棚の柳行李おろして、それを窓からプラットホーム落とした。
「まあじゃあ、御縁でももってまたいっしょになろう。」と娘に言い残して降りて行った。
ふっと涙が出そうになって、われながらびっくりした。それでひとしお、女に別れての帰りだと思った。
偶然乗り合わせただけの二人とは夢にも思っていなかったのである。男は行商人かなにかだろう。
『雪国』新潮文庫72頁
単に悲しいという事だけではない、何か、こころが純粋に、故に、感じやすく、鋭敏になってしまう。そんな哀しみが、そこはかとなく通じてくる。『雪国』と言うのは、不思議な作品。今回、いろいろ川端作品読んだけれど、やっぱり最高傑作だろうなあ。
でも、人間は、そんなに「美しい」と言ううだけのものではない。鏡のように世界を写せば、醜いもの、辛さ、憎しみ、嫉妬。人間が普通に持つ感情も綺麗に映る。つまり「魔界」。「仏界いりやすく、魔界入り難し」とは、一休さんの言葉。川端が、非常に好んだ言葉。
では、次回は「魔界」のほうへ。

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