孤児・一人 川端康成
次から次に奪われていく。
「死」とか、簡単に言うけど。幼く多感な時期に、これ程の「死」と向き合う。
戦争なり災害と言う特殊な事情があれば、そこに「怒り」を向ける事も出来る。
しかし、日常的に起こるこれらの「死」。それを受け入れる事。『十六歳の日記』と言う短編にこんな箇所があります。
「ぼんぼん、豊正ぼんぼん、おおい。」死人の口から出そうな勢いのない声だ。
「ししやってんか。ししやってんか。ええ。」
病床でじっと動かず、こう唸っているのだから、少々まごつく。
「どうするねんや。」
「尿瓶(しびん)持って来て、ちんちんをいれてくれんのや。」
仕方がない、前を捲り、いやいやながら注文通りにしてやる。
「はいったか。ええか。するで。大丈夫やな。」自分で自分の体の感じがないのか。
「ああ、ああ、痛い、いたたったあ、いたたった、あ、ああ。」おしっこをする時に痛むのである。苦しい息も絶えそうな声と共に、しびんの底には谷川の清水の音。
『十六歳の日記』岩波文庫7~8頁
十六歳となっているが、満年齢だと14歳の時のようだ。最後の身内となった祖父の死に際しての日記を元に、ほとんどそのまま発表したものらしい。
14歳で、観念的ではない、それこそ肉体をもきちんと伴った「死」に直面しながら、それを客観的にとらえる事。辛いだろうなあ。
でも。すべて辛い事って、どんどん受け入れて行くと、自分が透明に成っていく気がする。
作家の「書く」行為って、「伝えたい」って事だと思う。だから、理想とか、希望とか、普通の作家は、そこに行きつく。でも、それは広い世界の、ある一面の、ある見方であって、全体ではない。
世界が鏡に映ったとすれば、そこには醜い物も、ありがまま映っているはず。
自分が透明になって、がらんどうのような空間に、世界の有りのままが投影される。それを、そのまんま、取捨選択と言う理性のフィルターを通さずに、抒情として(と言っていいのかな)描く。それが川端の世界だと思う。
ただ、とは言え。人である限り、「美しい」ものには魅かれる。排尿の中で、ふっと清水の音が聞こえてくるくる、その瞬間。「喜び」「うれしさ」「ここちよさ」が、真善美と言う芸術の基本にある。それが感じられる瞬間だと思う。
特に、若ければ、その正の部分を直接に描ける。それが、川端作品の中で最も有名な『伊豆の踊子』であり、『雪国』になっていったんだと思う。
年表に関しては、川端康成記念会のホームぺージを参考にさせて頂きました。

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