はじめに「作家 川端康成に関して」でーす。 - 演劇ユニットG.com

はじめに「作家 川端康成に関して」でーす。

ノーベル賞なのにィこんなにエロティック?

新潮文庫から出てる「文豪ナビ」シリーズ。川端康成の見出しです。

そうなんです、エロいです。代表作は、言わずと知れた『雪国』。その中に、こんな会話があります。

 

「煙草を止めて、太ったわ。」
腹の脂肪が厚くなっていた。
離れていてはとらえ難いものも、こうしてみると忽ちその親しさが還ってくる。
駒子はそっと掌を胸へやって、
「片方が大きくなったの。」
「馬鹿、その人の癖だね、一方ばかり。」
「あら。いやだわ。嘘。いやな人。」と駒子は急に変わった。これであったと島村は思い出した。
「両方平均にって、今度からそう言え。」
「平均に? 平均にって言うの?」と駒子は柔らかに顔を寄せた。
この部屋は二階であるが、家のぐるりを蝦蟇(がま)が鳴いて廻った。一匹ではなく、二匹も三匹も歩いているらしい。長い事鳴いていた。(『雪国』新潮文庫 86頁)

 

雪国は、文筆家の島村が、雪国に行って、そこの芸者、駒子と逢瀬を重ねる物語。
駒子には旦那がいて、その旦那が、乳房の片方ばかり愛撫するんだろうと言う会話。

でも『雪国』。たしか戦時中、赤紙一枚で戦争に駆り出された若者が、一番愛したのが『雪国』とか。

話は、ちょっと変わるけど『源氏物語』。川端康成がもっとも愛したのも源氏。一説によると、現代語訳を試みようともしていたらしい。

そんでもって、『源氏物語』というのも、光源氏の一代エロ話。まして、父の後妻と関係して子供は作る(藤壺)。いたいけな少女を拉致監禁して、思い通りに教育する(紫の上)。現在で言えば、性犯罪。

でもでも、でもねえ。エロじゃあないんだよね。て言うか、「いやらしくない」。

よくよく考えれば、人間。そんくらいの事は平気でする。と言うか、そういう面も含めて初めて「人間」。
生命は、エロい事で、初めて「生命」として「生」を受ける訳だし。

逆に、それを隠す事こそが厭らしい。
とは言え、そこだけに注目して、これこそが「人間」。みたいな馬鹿な開き直りは、もっと厭らしい。

無為自然。ちゅうか、全体を見渡して、全部を大きく引き受け、「善」だけではない「悪」をも含む多種多様なものの統一体として描く精神。その強さ。
厭らしい欺瞞なんかふっ飛ばすくらいの、そんな「力」をもって、ただ「有る」ものを「有る」ごとく表現する。
その力強さが漂う時に、人はそこに「美しさ」を感じる。

だから、戦争と言う極限状況の中で。美しく、優しく、それでいて欺瞞も嘘も無い世界がぼんやりと浮かび上がる作品として『雪国』が生死の境に放り出された兵士に愛されたんじゃないかな。

もっと特徴的なのは、全部の中に、その奥を見通してしまう眼力。川端康成の作品にはその強さがあると思う。「見える」って、ほんとは怖い事。だって汚い物も見えるしね。
見たくないもの、絶対に感じたくない感情。全部。感じて、見尽くして、それで作家。でも見るためには、一旦「見る」事から離れる必要がある。

「見えている時には、何も見えず。目を失って初めて真実が見えた」

とは、オイディプスの台詞。

「失う事」。

川端康成は、失明はしていない。でも、「失う」と言う事の「辛さ」「苦しさ」は、自ら、眼を繰り抜いたオイディプスと同様に感じていたし、それが透徹した視線を生みだしたんだと思う。

次は、その「失う」事についてでーす。ちょっと生い立ちから探ってみましょう。