魂の書。書き言葉と話し言葉 - 演劇ユニットG.com

魂の書。書き言葉と話し言葉

毛筆、筆ですわ。硯どす。
岡田。

「胸中の山水・魂の書 山水画の名品と禅林の墨蹟」ってのが、根津美術館の展覧会の正式名称です。山水、水墨画の風景とは心に映じる、つまり胸中にある風景であり。書とは、魂の発露である。
そういう意味だと思います。

「書」って苦手なんですわ。自分の書く字が汚いもんで。そんで、早稲田、教育の国語国文学科なんてところを出てるくせに、変体仮名って読めんのです。つまり、何が書いてあるのかチンプンカンプンです。

ただね。数年前、北京の故宮博物院から、王義之(おうぎし)の蘭亭叙(蘭亭八柱第三本)が来たとき、思ったんです。

↓こんなんです。クリックすると大きくなります。

蘭亭叙 小.jpg 蘭亭って所で宴会するんで、その挨拶です。正式には挨拶文の「下書き」です。その「下書き」の本物も、唐の太宗がお墓にもってっちゃったんで、世界にはありません。つまり「下書き」の写しです。
「下書き」なんで見れば分かるけど、書き直しはある、行間も不揃い、字体もバラバラ。でもね、伝わってくるんです。「おもい」が。
見てるとね。そんでもって読もうとすると、違うものになる。まあ、伝えたい意図が、言葉→意味と言う経路ではなく、直接伝わってくるって感じでした。

もちろん、何が書いてあるか、内容位は把握しておく必要はあるだろうけれど、感じるってのは違うんだなあ。とか。
それでね。そんとき思ったんですわ。東洋では、「戯曲は進化しないだろうなあ。」って。

やっぱり戯曲、つまり「演劇の言葉」って奴は、魂の叫びだし、発露だと思うんです。喜劇より悲劇のほうが、一段上と言うのも、悲劇の方が発露しやすいって事だと思う。「書」と言うかたちで、これだけ発露出来てれば、そういう必要性はなくなる。

ただ、それは叫びであって、「対話」にはならない。
対話は、言葉による戦いであり、戦いがあればこそ宥和が生まれる。「雨ふって地固まる」かな。

それは、「話し言葉」に優がある。
真に異質な物との、真の宥和に至るには、「直接に話された語(ことば)が優位をもつ」。
演劇が産声を上げた場所での、解説者プラトンには、そういう明確な「知」があったのかなあ(ハイデッガー全集54『パルメニデス』創文社より)。

ギリシャは、真に悲惨な時代。だからギリシャ悲劇のような壮大な演劇が産声をあげた。
そして演劇に拮抗しながら、巨大な理想、哲学がプラトンによって打ち建てられたんだとも思う。

はてさて、これからは? 今って。どうなんやろねえ?