全てをもぎ取られる必要がある、 - 演劇ユニットG.com

全てをもぎ取られる必要がある、

のかなあ?
岡田でーす。

今更ですが、10月末に岩田安生さんが亡くなりました。8月『金の卵1970』が最後の舞台です。

20年間観客として、演劇、音楽(クラシックだけど)見てます。長生きなのは、やっぱり指揮者かな、オーケストラの指揮者。
1990年のバーンスタインは72歳かな。同年10月逝去、2001年2月の朝比奈隆のNHK交響楽団での公演、その後12月に逝去、たしか93歳。2000年のギュンター・ヴァント88歳の北ドイツ放送交響楽団の引っ越し公演、一年ちょいして逝去。が印象に残ってる。
特にバーンスタインは良かったな。ミュージカル映画にもなった「ウエストサイド物語」の作曲もした。でも本業は指揮者。
たしか肺癌で、ドキュメンタリーとかみたら相当辛かったらしい。指揮も汗だくで、大変そう。でも指揮自体は元気。オケはロンドン交響楽団で、「ベートーベンの交響曲7番」だったんだけど、おおらかでこんなに自由で良いんだってくらいに楽しいベートーベン。7番は「舞踏の権化」とも言われる。たしかワーグナーが言っていた。そう言う感じ。まさか半年経たずに亡くなるとは思っていなかったけど。
でも、その後の90過ぎた朝比奈隆の「ブルックナー9番」も、バントの、偶然に同じだった「ブルックナー9番」も、不思議に透明で、美しかった。

生きていれば「欲」もあるし、生き続けるとなれば、地位や名誉、お金も必要。でも「死」が見えてくれば、そういう余計な物は消えて行くのかもしれない。すべて失われて、最後の最後に、それでも表現したい、いや、「したい」と言う意志さえも消えていく。そこで初めて、あらわれるもの、真の意味での「生」かなあ、そんなもんが感じられた。
岩田さんも、辛そうだったし、でも稽古もきちんと来て、楽屋に簡易ベッドはあったけれど、衣装の作務衣を着て駅までしっかり歩いてたなあ。

表現にゴールは無いし、ふっとゴールのようなものが見えた時には、もう「死」が目前に迫っていたりするのかもしれない。でも、やはり奪われて、失って、全てをもぎ取られて、透明な瞬間に到達することが、表現者であるかぎり、逃げられない枷として聞こえてくるんだろうなあ。

前回の『闘争か、逃走か。』で、岩田さんがやった役は、時間が逆行する村長さんだったけど、世界の終末って、所詮は「死ぬ」って事なんじゃないかな。自分以外の世界が死に絶えたとしたって、自分も世界の一部である限り、生きている限り世界が終った事にはならない。

「世界の終末」って、実は考え出すと難しい。でも、世界を認識している自分が破滅したら、それが「世界の終末」なんだと思う。つまり簡単だ、死んじゃうって事。
でも、岩田さんの舞台や「茶入れ」、牧谿とか見てると、時間の逆行とは言わないけれど、やはり「死」を超えた「生」と言うのは感じる。

光りの早さに近づくと時間が遅くなり光速度で時間は停止する。陳腐な映画だと「動き」がない状態で表現するけど、ほんらいアインシュタインが提起した「時間がなくなる」は、宇宙の「始まり」から「終末」までが、一瞬にして現れると言う事になる。その次元で「一瞬」と言う概念が成立するのかは分かんないけど。多分、「生」は「死」になり。「死」も「生」になる。
アインシュタインが好きだったのはモーツァルトだけど、バッハのほうに、そういう感覚、生死を超越した厳しさは、強く感じる。

バッハは厳しんだよね、でも優しかったりもする。「ゴールドベルグ変奏曲」。埋もれていたのを、ポーランド出身でパリや、戦後アメリカで活躍したランドフスカってチェンバロ奏者が復興して、有名になった。
二度目の録音かな、ナチから逃れてアメリカに行った晩年の録音。CDジャケットってほとんど気にしないんだけど、このランドフスカの写真は好き。へんな着色はしてあるし、魔女みたいでもあるんだけど。二度の戦争を乗り越えて、苦難を乗り越えているのに、何か透明な物が感じられる。

ランドフスカ.jpgのサムネール画像