牧谿(もっけい)「煙寺晩鐘図(えんじばんしょうず)」 - 演劇ユニットG.com

牧谿(もっけい)「煙寺晩鐘図(えんじばんしょうず)」

牧谿「煙寺晩鐘図」

岡田

ニコラス・レイに「無法の王者ジェシー・ジェイムズ」って西部劇があって、劇中での結婚シーン。開拓時代のアメリカの話だから、素朴そのものなんだけど。結婚式の儀式自体を川の中でやってました。つまり神父も川の中で、川の水を聖水のようにかけたりして。
ゆっくりと流れる大河。素朴にいわう人々。若く美しい花嫁と花婿。将来に不幸がやってくるだろう哀しみを湛えた美しいシーン。

ニコラス・レイは「理由なき反抗」の監督。ゴダールや、ヴェンダースが賞賛し、ヴェンダースはレイの映画まで撮ってる。ただ一般的には50年代B級映画の監督かな。
でも、やっぱりレイの映画は美しい。

特に、あの結婚シーンが美しいのは、おそらく川の流れ、そして「水」なんだと思う。

「煙寺晩鐘図」を見てて、と言うより。書こうとして、なぜかジェシー・ジェイムズのシーンが浮かんできた。
西洋絵画は、あの湿潤とした大気、水を大量に含んだ大気を描く事ができない。確かにイギリスにはターナーがいる。芸術新潮の牧谿の特集でもターナーとの比較があったけど。やっぱりターナーは、単なる風景画家だと思う。

「平沙落雁図」でも書いたけど。牧谿の絵には動きが感じられる。煙寺晩鐘図は、夕刻に、遠く寺が見え、夕靄にけぶる木々や山の端がちらほらと見えている。解説とか見ると、晩鐘の音が聞こえてくるとか書いてあるけど、そこまでは行っていないと思う。絵はあくまで絵だ。
ただ、靄を通して見える木立は、まさしく見え隠れしているように思う。靄が、静かにゆっくりと動いている。そして、その瞬間を、きちんと切り取っている。そのセンスは見事だし、描くのではなく描かない事によって、より深い表現が出現するという事を直感的に感じる。

しかし、南宋の「茶入れ」もそうだけど、なんでここまで作家が透明なんだろう。削ったのは作家だし、描いたのも作家だろうに、でも、その意志さえもが透明になっている。彼らには、食って、うんこして、老いて蛆に食われたであろう肉体があったのだろうか? 不思議だ。

部分だけだけど、こんな絵。全体は、もっと横長

煙寺2 よい.jpg