敵をもはや持たない人間は、鏡の中の自分と出会う - 演劇ユニットG.com

敵をもはや持たない人間は、鏡の中の自分と出会う

一人称。いやあー、実は難しくって、もう。

岡田です。

ブログって、書いてます。そんで、一人称、つまり「私」「俺」......って難しいなあ。「あちき」とか書いたこともあるんだけど、どうもしっくりこない。最近は「吾」をつかったりしてます。
でもちがうなあ、なんて思ったりもする。そもそも、日本語って一人称、苦手なんだろうね。日本人、「おれが、おれが」って言うのはマイナスイメージ。一人称が前面にでると「戦い」のイメージが強くなる。久し振りにシェークスピア見て。その感覚をジッカーン。

とはいえ、グローバルやら、二大政党やら、裁判員制度とやら、どれもこれも「あれか、これか」、あなたが選びなさいとまあ、「一人称」を強要する環境が、キチンと整ってしまっては致し方がない。

それで、「わたし」と言う問題です。「吾」を使ってる理由はね。つまり「音」なんです。「ゴ」また「ア」とも発音する。万葉の時代は「吾が妻(あがつま)」だもんね。そんで持って、「ゴ」。ギリシャ語、ラテン語での「エゴ(私・吾)」の「ゴ」にも通じる。
ちなみに「言」に「吾」で「語(ことば)」、「LE」に「EGO(私)」で「LEGO」ギリシャ語の「ことば」語尾変化して「LOGOS(ロゴス・ことば・理性」。「DIA(対、弁」が付くとDIALOGOS(デイアロゴス)、つまりDialogue(対話、セリフ)。
すべて「私」が入ってる。
「ことば」って国によって違うようで、大事な部分は同じだったりする。それは、古代ギリシャも中国も、日本も同じ。「ア」と言う音は英語の「I(アイ)」。どこでも「大文字」、まあ「おれが、おれが」なんだろうなあ。シェークスピアの芝居って、みんなそうだもんね。でも、やっぱりそこには、絶対の「演劇」が存在したりする。

私を突き詰める時に見えてくるものは「敵」なのかも知れない。でも、その「敵=私」を受け入れるとき、何か「真実」の光が見えてくるのかなあ。

「敵をもはや持たない人間は、鏡の中の自分と出会う」
ハイナー・ミュラー『闘いなき戦い』(未来社)より。

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