クリント・イーストウッド『グラントリノ』 - 演劇ユニットG.com

クリント・イーストウッド『グラントリノ』

見てきました。ええ、これって。
岡田です。以下、筋に触れちゃいますんで、まだ見ていないとか、これから見る予定の人は読まないほうが良いのかな

まあ、同じですね。って、イーストウッドにはこの系統の映画が多い。今回、音楽を担当した息子ケイル・イーストウッドを主人公に、撮った『センチメンタル・アドヴェンチャー』あたりから、最近の『ミリオンダラーベイビー』も似た主題。
特に『パーフェクトワールド』。ケビン・コスナー演じる脱獄囚と、徐々に心を通わせるエホバの証人の孤独な少年、そしてひとつひとつ少年の夢をかなえていくというストーリーは全く同じ。
ラスト。脱獄囚が丸腰にも関わらず、ポケットから出そうとした「手紙」を拳銃と間違われて射殺される。少年が涙にくれながら、その手紙を「勲章」のように持つ。その手紙へのクローズアップ。
『グラントリノ』見た人なら分かると思いますが、このラストって、カットまでおんなじやん。

ただです。「贖罪」ってね。確かにそういう感じがするんですよ。それはねヒューマニズムって意味ではなく。『許されざる者』が西部劇に対する贖罪ってそういう意味でもなく。もっと深遠にたいする何かかなあ。
イーストウッドは死なんのですよ。つまり映画の中でね。まあ『センチメンタル・アドヴェンチャー』ではラストに死んでますけど、これは結核だし。銃に撃たれてなんて言うのは、言い方は悪いけど、生き返るんです。『ガントレット』や『ハートブレイクリッジ』みたいにね。

まあ映画ですから。ヒーローですから。それで良いんですけど。そうですやろか、本当にそれでいいんですやろか?

『ホワイトハンター・ブラックハート』ってね、映画監督のジョン・ヒューストンが主人公の映画で、その役をイーストウッドやってるんですわ。92年、『許されざる者』の前作です。ちなみに、J・ヒューストンがアフリカで撮った『アフリカの女王』(これは面白い喜劇。)って映画の撮影談を映画にした変な映画なんですけど。まあ、J・ヒューストンも気違いなんで、アフリカに来て映画撮らんのですわ。像狩りに夢中でね。でも夢中に成りすぎて、黒人の像狩りのハンターを死に追い遣ってしまうんです。像に殺されるんですがね。そこで、いきなり「ACTION!」つまり、映画の撮影に入る。
なんなんだ、これって思ったんです。撮影に逃げるのかよ、見たいな。
その後が、『許されざる者』。傑作だと思います。たた、この映画が、イーストウッド映画において異質なのは、この映画が捧げられていると言う事。ラストに流れる「DEDICATED TO SERGIO AND DON」。つまり、映画監督のセルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げられている。それまで映画史には、とんと無頓着のイーストウッドがいきなりです。

まあ映画ですから、フィクション。作り物。でもねえ、これでも演劇とかやってると思うんですわ。偽物は偽物だし。といって本物だけが素晴らしいというわけでもない。ただ、感情が共通である限りはねって。

またまた飛んですんませんけんど、ゴダールの『フォーエバー・モーツァルト』で映画監督が出てくるんです。娘たちと、サラエボに行こうとする。でも、途中で一人逃げ出して、パリに戻ってしまう。娘たちはサラエボに行って殺される。彼は、パリで商業映画の撮影に入る。

監督っていうか、まあ表現者ってのは、そういう生き物なのかなって。偉そうにしてても、普通の人間だし、怖いし、死にたくないし。でも虚勢をはって、所詮は表現に逃げるしかない。でもそこで、その辛さに耐えつつも表現する。他の人間を殺しながらね。
ああ、嫌だ嫌だって言う姿。そういうもんも投影されてるのかな。なんて事を思いました。

『ゴダール全評論・全発言』(筑摩書房)めくってたら、ゴダールとイーストウッドが握手してる写真がありました。そん時は、ゴダールがイーストウッドを「この親愛なるホンキートンクマン(しがない流しの歌手、センチメンタル・アドヴェンチャーの原題)」って呼んでたみたいです。ふーん、成るほどねえ。