ストレーレル演出『二人の主人を一度に持つと』
岡田です。
作は、18世紀のゴルドーニ。コメディア・デラァルテと呼ばれる、イタリアの仮面劇。1947年に、ストレーレルが再発掘し上演したもの。1997年に演出のストレーレル自身は亡くなってます。
最初に見たのは、1999年の2回目の来日公演だったんで、実は二回目。ちなみに招聘した野村萬斎さんは、30年前の初来日も見ているみたいです。
主演、アルレッキーノ役は、フェルッチョ・ソレーリ。79歳でした。公演後、カーテンコールの前に舞台上で仮面(皮で作ったものらしい。)を脱ぐんですけど、脱いだ途端に普通のイタリアの小父さんに成ってました。歩き方が違う。不思議ですねェ。役者さんて。
舞台上は一段高くなっていて、そこが本当の舞台という設定。周りに椅子が数脚。そこに出捌けの役者が待っていたりって言う。今ではよく見る二重構造の舞台。
板張りの本舞台上は、奥に柱が二本、横棒に何枚かのカーテン。背景の絵が書き割りになっているという、非常に簡素。
で、そのカーテンちょいと短い。上手に一杯に引くと下手が、逆に引くと逆が、微妙に開くんですよね。
話は変わりますが。前回の『金の卵1960』、楽日のエピローグ。アクシデントがあり、舞台装置が壊れました。でも、その時のお客さんの笑いは本物でした。もちろん再現は無理です。でも、あのリアルな笑いを突き詰めて行くと、あの短いカーテンに行く着くのかなとも思います。
リアルだとか、現実っぽいとか言いますが。お客さんは賢い。だれも、舞台に現実なんて見てないし。芝居を、つまりは「嘘っこ」を見てるわけです。でも、真剣にその「嘘っこ」を極めて行くと、現実より美しい「真実」が、ふっと立ち現れる瞬間がある。故に、役者もスタッフも真剣に「嘘っこ」をするわけです。では、もっと「嘘っこ」を計算していくとどうなるか。
舞台上に、「これはお芝居ですよ。」、「嘘ですよー。」って言う何かが欲しくなる。
短いカーテンは、役者に上手に下手に引っ張られ。舞台裏を隠そうとする。しかし、ワザとそれを演出することによって、不思議な何かが現れる。そう言う事なんではないかしら。
たとえば、日本の文楽でも、名人の人形遣いが人形を操る場面では、顔を隠さない。どうどうと、これは人形芝居ですと誇示してみせる。
『曽根崎心中』のお初、徳兵衛の道行にしても、なぜ文楽が美しいのかは、計算されつくした「嘘」を堂々と行う洗練さにあるんだと思う。
それでいて、そう言う表現って、単純で簡素です。ねえ。
追伸
イタリア仮面劇に関しては、ジャン・ルノワール監督『黄金の馬車』で、コメディア・デラルテの仮面劇を扱ってるんで興味のある方はどうぞ。ちなみに監督は、あの画家のルノワールの子供です。ちょこっとあらすじ書いておきます。
『黄金の馬車』あらすじ
18世紀の南米スペイン植民地を舞台に、イタリアからやってきた仮面劇の一座を軸に展開する恋のさやあてと宮廷の陰謀劇を、舞台と現実をないまぜにして描く人間喜劇。

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