2009年6月アーカイブ: 演劇ユニットG.com

才能とは?

友田です。

突然ですが、「才能」という言葉についてちょっとお話を。何かやりたいと思う人がしばしば虜になり、人生を誤る人も続出するというこの言葉「才能」。果たして才能って何だろう。

 

その実体はやはりわからない。ただはっきりしているのは、そういうものはある、「才能」という表現で表される何物かはあるということだ。そして、才能には「大きさ」がある。手のつけようがないぐらい大きな才能というのはやはりあるし、それほど大きくない才能はそれ以上にある。やはり、大きい才能ほど希少なもののようだ。何かの分野で状況がすべてその人の周囲で回りだしてしまうとか、何十人、何百人の創作者がいようが、百年も経ってみれば結局覚えられているのはその人一人、というようなことはよくある。だれか、シェークスピア以外の16~17世紀の劇作家、知ってる?

 

しかし、あなたが生まれつき大きな才能の持ち主でなくても、絶望することはない。才能はある程度天与のものだが、同時に育てることが出来るものでもあるからだ。生まれつき巨大な才能というのもあるが、大きな才能も、ほとんどの場合は自身の努力によって築かれたもの。努力だけでなく、めぐり合わせとか、出会いとか、運の要素も大きいが、何にせよ、決まった大きさではないということだ。

 

さて、G.comというところだが、生まれつき大きな才能を持っている人など一人もいない。せいぜい中くらいの才能が集まっている。それも、若干出遅れ気味。大きな才能はやはり10代後半から20代で開花する。30歳を迎えるころには、その分野で押しも押されもせぬ存在になっているものだ。G.comには見事に当てはまらない。

 

生まれつき大きな才能は放っておいてもどんどん大きくなる。才能が状況を吸い寄せてしまうから。小さな才能は、あきらめた方が本人のため。趣味として楽しんだ方がいい。中ぐらいの才能は、実はいちばん難しい。あきらめるには惜しい。自分でも、才能はあると感じるし、周囲にもある程度は期待されている。でも状況を呼び寄せるほどの力はない。放っておいたら何事もなくどんどん馬齢を重ねていく。去年までのG.comメンバーはまさにこれであった。

 

しかし、それも徐々に変わりつつある。縁の作り方だったり、努力の仕方だったり。それによって、中ぐらいの才能は大きな才能に育つ可能性がある。研鑽あるのみ。そして、他人と力を合わせるのも一つの方法。集団としてのG.comに可能性があるとすれば、そこだ。出遅れ気味の中ぐらいの才能たち。とんだ負け犬集団だが、力を合わせれば、胸躍る冒険が待っているかも・・・なんてね。乞うご期待!

gold's gym

昼は整備工場の事務、兼、車検屋。夜は川崎の蕎麦屋で働いている岡田です。

 

まあ自分の時間の無いこと。それに風呂無しアパートの独り暮し(四十二歳)なもんで入浴の時間が無ーい。そこで、ジムなんですねえ。神のお導きとでも言いましょうか、GOLD'S GYM大井町店は24時間営業、大森店はジャグジー付きで、駅2分。共通で使えるし、銭湯より便利で安い、と言うことで入会。

シュワルツェネッガー曰く、「筋トレは、セックスより気持ちいい」とかで、実は昔からGYM通いは日常。でも区民施設がメインで、会員登録は初めて。

TIPNESSKONAMI(昔のイグザス)は行った事があるものの、アメリカのGOLD'S GYMかよと思いつつ、大井町店で入会。だって24時間営業なんだもん。

 

でも、そうかそうだよなあ。ここ数年、アメリカ=バブリーみたいな感じだったけど。実は、開拓の国。

 

GOLD'S GYM大井町店。もとイトーヨーカ堂が入っていた大きい雑居ビルの4階。薄暗い。ただ、だだっ広いフロア。所狭しと置かれた無骨な筋トレ機械。油圧式じゃなくて、鉄の重りの古いやつ。ガッチャンガッチャン鳴るんだよ、これ。溶接部分は、錆びが出て、皮は擦り切れてるよう。それがゴチャゴチャ、昆虫みたいに蠢いて。なんなんだこりゅあー。正直、ちょっと怖い。

 

でも、意外と環境に順応するタイプなもんで。小一時間で順応。「おお、ここの筋肉のここに効くね。」なんて思いつつ、十数種類の昆虫機械と遊んじゃいました。でもまだまだあるんだよ。ふふふ。

 

筋肉って、鎧、甲冑なんだと思う。あの昆虫たちは、やっぱり「戦争機械」。鍛えるとか健康の為とか、ガラス張りのお洒落なGYMは巧妙に隠してるけど、結局「戦い」の「恐怖」と「憧れ」だもんなあ。

でも「敵」は外部に存在するんじゃあない。あくまで内在する。外部に「敵」を求めれば、ほんとに楽だけど、それは濁りだ。透明なものこそ内部に「戦い」を含む。

ああーあ。面倒くさ。

 

「激しく待ち焦がれながら/恐ろしい甲冑を身にまとって/数千年世紀」

(H・ミュラー『ハムレット・マシーン』中に引用されたヘルダーリンの詩。)

 

なあーんてな。

 

ちなみに宣伝、↓も見てね。三十人クラスの宴会もOKだよーん。

http://r.gnavi.co.jp/a775601/

友田です。

梅雨ですね。どか降りよりもしっとり降る日が多い今年の梅雨。それほど蒸し暑くもなく、不快感も高くないと感じるんですが、いかがでしょうか。昨晩も夜半過ぎまで、屋根を打ったり樋から落ちたりする水音が静かに響いていました。

 

昨晩のような夜に雨の音を聞いていると、水の流れを意識します。例えば一本の樹は、無数の葉の表面でたくさんの雨粒をいったん受けながら、その下の葉へ、更にその下の葉へと水を落としていきます。その様子は、樹を小さな川が束になって取り巻いて、地面へと水を注ぎいれていくかのよう。

 

雨の日に樹からはざわめきが聞こえますが、それは水滴が葉を揺らす小さな音が、葉と葉がこすれる音と混ざって、濡れたような独特の音になって響いているもの。樹が林や森になっていると、樹のざわめきはもはや通奏低音になって周囲に響き渡っており、その周囲にいるものは人も犬もカエルも、ざわめきに無意識をひたひたと浸されているよう。そんな雨の日は、わたしたち人間の感情も、樹のざわめきを意識に変換した結果に過ぎないのかもしれません

 

水の流れのほとんどは人目につかないところに存在しています。樹から地面へと注がれた水が、そして側溝やマンホールに吸い込まれた水が、その先どこへ行くのか。正確に知っている人はいません。地下水脈は細い蜘蛛の糸で編まれた巣のように地中に広がっており、水はその網を、分子一つ一つ、かすかに振動しながら走っていきます。無数に合流と分岐を繰り返し、やがて川に。あるいは川の下を通る地底の川へと。まるで三軒茶屋付近の国道のように、水の流れも幾層に分かれながら、いまや生命を持つものの如く躍動しつつ、少しずつ海へ近づいていきます。岸を浸し、土を運び、石を削り、流木を運び、水草に酸素を、魚にプランクトンを与え、しみこみ、おち、はじけ、とどろき、たゆたい、われ、そだち、すすみ、ねじれ、ひびき、うねり、はしり、おどり、ひろがり、のぼり、あつまり、海へと運ばれていく水。

 

そしてその水が、いつか水蒸気となり、雲となり、また雨となって木の葉を濡らすのです。何年後か、何十年後か、それとも、わたしたちが皆死に絶えた遠い未来に。

ひめゆりの塔

友田です。

日曜日、主宰三浦が脚色を手がけた「ひめゆりの塔」(詳しくは三浦ブログをご覧ください)に足を運んだ。

 

内容は有名な沖縄戦の悲劇。約4時間の長いお芝居だが、飽きることはなかった。本当は別の用事があり、3時間ぐらいで失礼するはずだったが、目の前で沖縄戦が展開されているときに、退場などできるものではない。芝居の上手下手を超えて、二十歳前後の人たちが一生懸命にやっているということが放つ磁力も大きい。また、通路が芝居スペースと重なっているため、退場しようとすると物理的に芝居を妨害してしまうおそれもあり、結局最後まで見た。

 

次回G.com公演客演予定のSさんも出演。大柄で目を惹く存在感。一箇所、彼女が中心になる場面があるのですが、周りの人が台詞を吐いているうちに段々Sさんの目が潤んでくるのが面白かった。鍛え甲斐のある逸材と三浦は見込んでいるが、楽しみです。

 

それにしてもなかなかよく出来たお芝居だった。楽しいシーンの次には悲しいシーンを。徐々に強まる悲惨さと恐怖。ハリウッド映画の作劇術に似た計算が効いている。三浦の貢献がどの程度なのかは分からないが。

 

自ずと感じさせられたのは、「教育」というものが持ったある種の力というか、ここでは恐ろしさ。ひめゆり学徒隊は同じ敷地内にあった沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒の部隊だが、そのことは、彼女らが当時の沖縄で最も恵まれた高い教育を受けていた少女たちであったことを意味する。同世代人口のわずか数%に属するエリートだ。

 

沖縄の文化は本土とは相当異なるので、沖縄には今でも日本人意識が薄い人たちも少なくない。当時はなおさらだったろう。そうした中で彼女らは、日本の政府や軍に与えられた役割を懸命に果たそうとした。一言で言えば自らの受けた教育に忠実な、とてもいい子らだったのだと思う。

 

皮肉でも何でもない。平時であれば、彼女らは卒業後は主に教育者として、沖縄の社会を支えていくはずの人たちだった。誰が何と言おうが、いい子というのは必要なのだ。地域社会で尊敬され、愛される人生が彼女らを待っていた。だが、非常時においては、彼女らが培った義務感・責任感が彼女らを死地に追い込んでいった。運命の皮肉というには余りに悲しい。軍国主義の過ちと言えばそのとおりだが、それだけで語れるものでもない。

 

そしてこれは、教師たちのドラマでもあった。日本語教師への転身後、わたしは「先生」という言葉に過剰反応する傾向があるが、それでもこれには参った。教師というのは平時においても演技の要素が多い職業だが、それにしても、自分の身も守れない戦場で「先生は君たちを守ります」というのは何と無茶な大ぜりふだろうか。もちろんこの芝居はフィクションだが、ひめゆりの先生たちは、実際にこれに似た台詞を吐かざるを得なかったはずだ。悪魔が聞いたら高笑いしそうな台詞を、それでも言うしかなかった彼ら・彼女ら。帰宅後インターネットで見てみると、確かに、ひめゆりでは生徒以上に教師の死亡率が高いのである(生徒は222人中136人が死亡、教師は18人中13人が死亡)。守れないものをそれでも守ろうとした先生たちの悲しさにわたしは涙した。

四つの最後の歌

「4(し)」って数字はさけてます。そんな岡田でーす。

 

ロッカーとか、居酒屋の靴箱とか、無意識というよりも直感で忌み嫌ってます。だってえ、なんか嫌なんだもん。そうねえ、やっぱり「死」って怖いんだよね。でもなんで、でしょうねえ。だって知らないわけですよ。生まれてこの方、死んだことは無いわけだし、ずっと生きてるんですよ。まあ考えてみればですけどね。

でも一般的に、常識的に、そんでもって普通に言えば、その先に......。なんて考えると、やっぱり怖いんですねえ。

「怖い」ってやつは、でもたぶんそう絶対に、本当のものになる元の感情が生まれる所だと、魅かれているのかなあ、なんて言う何かで。好きです。だって結局は、怖いのって、どこかで気持ち良いという、何か「生きている」実感が、謙虚に戦慄する瞬間だったり。決して否定はしないんですけど。なああ。

 

「四つの最後の歌」。リヒャルトシュトラウスが、最晩年84歳の時に書いたオーケストラ付きの歌曲です。ヘッセの詩3曲と、アイヒェンドルフ1曲。ちなみに「春」「九月」「眠りにつこうとして」「夕映えの中で」。なんか嫌だけど、最晩年って感じです。

 

でも、こいつ相当に嫌なやつ。見栄っ張りの、エラぶり。若い頃に成功して、交響詩「英雄の生涯」とか書いて、でも、その英雄って誰だと思います。そうそう自分なんですよ。アホか、ドイツの田舎もんが。まあそんで、ナチを利用して、音楽の最高権力にぎったりして。まあ、でも一生懸命に、はてまた「人間的」に生きたんでしょうなあ。

 

明るい曲なんですよ。基本。長調だし。特に最後の「夕映えのなかで Im Abendrot」、それこそ明るい変ホ長調で始まって。まあ最後は「これは死なのだろうか?」って終わるんですけど、その最後のところ、ホルンに「二長調3和音」とやらが現れるんだそうです。CDの解説に書いてある。それが「根源の忘却」って奴の動機になってて、うーん、根源の忘却かあ、何じゃそりゃあ? とは言いつつも、長いながーい階段を上っていくとそんな所にも行くのかなあなんてねえ。

 

ちなみにCDは、カラヤン指揮、ベルリンフィル ソプラノ グンドラ・ヤノヴィッツ(1973年録音 グラモフォン)が最高。

カラヤン、1985年に同じベルリンフィル、ソプラノ アンナ・トモワ=シントウで再録音してるけど、やっぱりヤノヴィッツの美声がいい。それに名ソプラノ、シュワルツコップ盤よりも、やっぱり、この曲にかんしてはヤノヴィッツが良いどえーす。

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